2023年2月月次祭講話要約 「誠一つが天の理」

只今は2月の月次祭を無事つとめ終えさせて頂きました。御参拝下さった皆様、誠にありがとうございました。少々お時間を頂戴してお話を取次ぎさせて頂きますので、お付き合いの程よろしくお願い致します。

本日は、「誠一つが天の理」についてお話させて頂きます。

現在、天理教では別席を9席運ばれた後に「さづけの理」を拝戴する事ができます。この「さづけの理」を拝戴した際に、それぞれの郷里に戻って布教伝道する人への心得である「おかきさげ」を頂戴することが出来ます。

この「おかきさげ」に「誠一つが天の理」という言葉が出てきますので、その一文を拝読させて頂きます。

日々という常という、日々常に誠一つという。
誠の心と言えば、一寸には弱いように皆思うなれど、誠より堅き長きものは無い。
誠一つが天の理。
天の理なれば、直ぐと受け取る直ぐと返すが一つの理。よく聞き分け。
又一つ、一名一人の心に誠一つの理があれば、内々十分睦まじいという一つの理が治まるという。
それ世界成程という、成程の者成程の人というは、常に誠一つの理で自由という。
よく聞き取れ。
又一つ、これまで運ぶという、尽すという。
運ぶ尽す中に、互い扶け合いという。
互い扶け合いというは、これは諭す理。
人を救ける心は真の誠一つの理で、救ける理が救かるという。よく聞き取れ。
又一つ、これまで運ぶ尽す一つの理は、内々事情の理、めん/\事情の理に治め。
(おかきさげ 一部引用)

この「誠」という言葉を辞書で引きますと、「言葉や行いに作りごとがない真実の心」、「うそ・偽りでないこと」とあります。

先人の宮森与三郎先生は「誠」とは次のようにお話下さっています。

「誠といふものは心と口と、行と三つそろはにや誠や御座いません、誠の話をするくらひの人は世界を探してごらん、竹杷(さらい)でかき集めるほどある、いくら誠なことを云ふても、それを実行せねば誠やございません。」(みちのとも 大正6年7月)

このように「誠」とは心と口と行いの3つが揃って「誠」とお話下さっています。口で良い事ばかり言っても、心や行いが違っていれば、それは真の誠とは言えないという事であります。「おかきさげ」の言葉にあります「人を救ける心は真の誠一つの理で、救ける理が救かるという。」というように、人を救ける行いが真の誠一つと教えて頂いています。「さづけの理」を拝戴して「さづけ」を取り次がせて頂き人を救ける「行」。ここまでは、私も少なからず出来ているかと思います。しかし私自身、3つの中で一番難しいのは「心」でないかと思っています。うそ偽りなく救けたいという「心」があるから、救かってもらいたいというという「行」があるのでは?と思うかもしれません。しかし、「心」の中に「してやった」という心が何処かに無いか?と思うのであります。

宮森与三郎先生の「何をさせてもらっても心が大切(みちのとも 昭和8年5月20日号)」に次のようなお話があります。

「させていただく」の精神で

前文略 
 「今日のように「お道は結構や」と言うて付いてくる人もでき、少しも邪魔する人がないのに、思うほどできてこない。皆さん一生懸命やってくださっていることはほんまや。それにできてこない。不思議なものや。「神様の働いてくださる力が薄うなったのかいな」と思われる人もあるやろうが、それは大変な間違いや。
 神様は、初めもいまでも、これからでも同じや。少しも変わってはおられんが、働く者の信仰が違ってきているのや。また同じ働いても、その心の持ち方が違っているのやと思います。一生懸命にやってくださっても、その尻から恩に着せているのやないかと思う。
 たとえば、大きな荷物を持って道を歩いている人を見て、それをたすけてやろうと思って、その荷物を半分持たせてもらうとする。しかし、持った人が、「気の毒やからしてやった」と考えるのと、「持たせてもらった」と考えるのとは、同じたすけでも、そこにえらい違いがあるやないか。精神がまるっきり反対やがな。神様からご覧になったら、どっちを喜んでくださるやろか。こんなこと言わんかて分っていますやろ。」

というお話であります。

 先ほどのお話の繰り返しですが、うそ偽りなく救けたいという「心」があるから、救かってもらいたいというという「行」があるのでは?と思うのであります。しかし、宮森先生のお話のとおり「心」が「してやった」になっているのではないか?という事を反省しなくてはならないのかと思います。たとえば、一生懸命働いて秋になって収穫があった時も「俺の力でしたのや」と思ったり、商売をして儲かっても「俺が稼いだのや、俺のお陰で儲かった」、誰かをお救けさせて頂いても「あれは俺が救けたのや」と思うのでは、「誠の心」とは言えず「天の理」には適わないわけであります。
「してやった」の心ではなく「させていただく」の心に切り替えさせて頂かなくてはならないのだと思います。この「させていただく心」と「口」と「行」の3つが揃って初めて「誠」と言えるのだと思います。

「おかきさげ」の話に戻りますが、「おかきさげ」の中に
「誠の心と言えば、一寸には弱いように皆思うなれど、誠より堅き長きものは無い。」(おかきさげ)

とあります。昔から「正直者が馬鹿を見る」という言葉があり、これは「悪賢い者がずるく立ち回って得をするのに反し、正直者はかえってひどい目にあう。世の中が乱れて、正しい事がなかなか通らない」ということであります。しかし悪い事は長く続かず、悪い行いは「悪い理」として回り、見返りは必ず何処かできます。反対に誠の心は一見弱く、悪賢い者がずるく立ち回って得をするのを見ると損をしているような気もしますが、長い目で見れば誠の方が強く長く続くのであります。

また、「天の理なれば、直ぐと受け取る直ぐと返すが一つの理。」(おかきさげ)とありますように、「誠一つが天の理」で、その心は天に直ぐに届き、その理は良い理として直ぐに回って返ってくると教えられています。ですから、「してやった」という心ではなく、「させていただく」という心に切り替えさせて頂き、「口」と「行」と3つ揃った誠の心になる事が大切であり、誠の心でお通り頂くことが大切なのだと思います。

本日は「誠一つが天の理」についてお話させて頂きました。
ご清聴ありがとうございました。

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