2023年春季大祭講話要約 「拝み祈祷するやなし」

講師:柴田正慶(教会長)

只今は春季大祭を無事つとめ終えさせて頂きました。御参拝下さった皆様、誠にありがとうございました。
少々お時間を頂戴してお話を取次ぎさせて頂きますので、お付き合いの程よろしくお願い致します。

本日は、「拝み祈祷するやなし」というお言葉についてお話させて頂きます。

「拝み祈祷するや(で)なし」というお言葉が出てくるおさしづは6件、また同等のお言葉は2件で計8件のおさしづがありますが、全てが身上願となっています。その1つ、明治20年 明石関助身上願のおさしづ全文を拝読させて頂きます。

「さあ/\、身の処にて不足なる/\いう処、何程願えども何程頼めども、何程尽せども、こうは無いという心を、すっきり取り直せ。何程の事と言うても拝み祈祷するやなし、たゞ一寸話聞いて、成程という心なら、身の処速やかなものや。どんな事も心通りや。何かの処聞き分け。第一何ぼ願えども速やかならんという理を聞き分け。順序の道は世界ある。そこで誠という心治めにゃならん。世界見て、めんめんもあんな難渋な身ならなあと思うて、たんのうと心にせよ。これが誠や。誠より受け取る処無きものと。」

本おさしづの文頭の意味は、どれほど願ったのに、頼んだのに、尽くしたのに、身上になるなんてという心を、直しなさい。拝み祈祷をするのではなく、親神様のお話を聞いて心に治めたなら、身上も健やかになる。心通りの守護をする。という事であり、親神様は人が願い、頼みをしても、心が親神様の思召しに沿わなければ、守護はして下さいません。願い通りの守護であれば、例えばですが、年末に宝くじを購入して、御供をして「どうか1等の10億円が当たりますように」とか、本日が大学入試共通テストですが「○○の大学に受かりますように」とか、または「○○さんとの恋愛が成就しますように」と願っても、全てが適うかといえばそうではないと思います。願い通りの守護ではなく、心通りの守護をして下さいます。ですから身上をしても、不足の心では、不足の心通りの守護になってしまうわけですから、不足の心を無くして「たんのうの心」で通る事が大切であると教えて頂いています。「たんのう」とは、ただ単に我慢したり辛抱したりするという事ではありません。「たんのう」とは、これで結構、ありがたいと前向きに受けとめ、心を励まして踏ん張ることです。そして、この「たんのうの心」が「誠の心」であります。

しかしながら、身上をして不足をしないというのは、なかなか難しいものです。どうして私なの?何か悪い事をした?と不足の心を持つことの方が多いような気がします。私自身も36歳の時に潰瘍性大腸炎を患い1ヶ月間入院しました。その後はなんとか御守護頂き、仕事には復帰しましたが食事制限と毎食後に薬を服用しないといけない状態でした。それで症状はある程度抑えられていましたが、誘惑に負けて、美味しそうな油したたる肉や背油ラーメン、ケーキなどの乳製品を食すと、きっかり90分後にはトイレに行かないといけないような生活で、薬もさぼって服用をしないとお腹の状態が悪くなり体調も優れない状態でした。それが45歳の教会長になるまでの10年間続きました。やはりその時思ったのは「たんのうの心」ではなく「不足の心」です。なぜ僕が?参拝もして御供もしているのに!と正直思いました。しかし、現在はご守護頂き、牛乳をストレートでは飲みませんが食事制限もほとんど無く、薬も服用しないで2年間無事通らせて頂いています。では、何か変わったのか?自分自身ではあまり変わらないような気もします。しかし、昨年8月に、妻と教会長夫妻特別講習会を受講した帰路で、天理よろづ相談所病院で働いていた時の1つ上の先輩と電車でばったり出会いました。その際に「ずいぶん変わったね」と言われました。まぁ~10年以上も経過したのだから、それなりに人生の経験も積み大人にはなったのかな?とも思っていましたが、おさしづに「順序の道は世界ある」とあります通り、私の人生において潰瘍性大腸炎を患った事は、人間性においても教会長になるためにも必要な順序、通り道であったのかとも後々考えました。その様な心が「たんのう」というのかもしれませんが、苦しい中で「たんのう」する事は本当に難しいです。

M21.3.7の「拝み祈祷するやなし」のお言葉がある別のおさしづに「皆世界は鏡や。心通り皆映してある。(略)身は不自由でたんのうとは理が分かるまい。前生いんねん分かるまいから、世界に映してあるからたんのうと。」とあります。「いんねん」とは漢字で「因縁」と書きますが、物事が起きるのは、その原因(=因)があり、物事が起こるための作用(=縁)をする働きが、目に見えないけれどあるという事です。身上になる因縁、前生の因縁があるけど、我々人間には因縁が見えず因縁がわからないので、親神様は世界という鏡に映して目に見えるようにして下さっており、因縁を断ち切る手立てをして下さっているということです。その様に目に見えるようにして下さっている状態を喜ぶ事が「たんのうの心」です。ですから、我々は自分の心が映る世界を真摯に正直に受け止めて「結構、ありがたい」と、心を切り替え通る事が大切であると思います。そして、その切り替えようとする心が「心定め」でもあるかと思います。

本年より、教祖140年祭に向けた三年千日がはじまりましたが、この旬の時期に自分なりの「心定め」をして頂く事で、現状または将来に向けた「善い種」を蒔く事が出来ることは間違いありません。本日、当教会の心定め用紙を提出して頂いた方の「心定め」は、三宝に乗せて御供させて頂きましたので、本年1年、定めた心を忘れずにお通り頂ければと思います。まだ提出されていない方も、是非、心定めをして頂ければ、来月、再来月の月次祭でも御供えをさせて頂きますので、どうぞ宜しくお願い致します。

本日は、「拝み祈祷するやなし」というお言葉についてお話させて頂きました。冒頭の繰り返しになりますが、「何程の事と言うても拝み祈祷するやなし、たゞ一寸話聞いて、成程という心なら、身の処速やかなものや。どんな事も心通りや。」とありますように、親神様は願い通りの守護ではなく、心通りの守護をして下さいます。自分の心が映る世界を見つめ直し、「たんのうの誠の心」で、「心を定めて」お通り頂ければ、御守護を頂戴した世界へと成ってくるのかと思います。

ご清聴ありがとうございました。

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相談役:教会長 柴田正慶
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 JADP認定メンタル心理カウンセラー®資格

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