2026年6月月次祭講話「おつとめの大切さ」
立教189年6月 月次祭講話 要旨 講師:柴田正慶
本日は皆さまとともに6月の月次祭を勇んでつとめさせていただけたことを、心から嬉しく思います。ご参拝いただきました皆さまに、心より感謝申し上げます。
本日は「おつとめの大切さ」について、お話をさせていただきます。
私たち天理教の信仰において、おつとめは最も大切なものの一つです。なぜなら、おつとめは親神様が人をたすけるためにお教えくださった手段だからです。教祖は「この道はたすけ一条の道」とお教えくださいました。そのたすけの中心にあるのがおつとめです。
おふでさきを拝読いたしますと、当時は激しい弾圧の中にあっても、親神様は繰り返し、おつとめを急ぎ、おつとめを完成させることをお急き込みになられました。そして教祖は、本来人間の定命である115歳を25年縮めてまで、おつとめの完成を願われました。明治二十年一月二十六日、教祖が90歳の時に現身をお隠しになられた時も、おつとめの完成を見届けられてのお姿でありました。それほどまでにおつとめは大切であるということです。
おふでさき 第2号に
これからハからとにほんのはなしする なにをゆうともハかりあるまい 二 31
とふぢんがにほんのぢいゝ入こんで まゝにするのが神のりいふく 二 32
たん/\とにほんたすけるもよふだて とふじん神のまゝにするなり 二 33
このさきハからとにほんをハけるてな これハかりたらせかいをさまる 二 34
とあります。
ここでいう「から」と「にほん」とは、何を指しているかと言いますと、本部員の上田嘉世先生のおふでさきを学ぶでご説明くださた内容では、「から」とは唐で中国や外国を指す言葉ですが、つまりは「まだ親神様の教えが行き届いていない者(場所)」であり、「にほん」とはいざなみのみこと様が最初に人間を生み下ろされた土地である日本、つまりは「親神様の教えがいき届いている(聞き分けた)者(場所)」であるとのことです。ですから、親神様のお教えを聞き分けた者と、まだ聞き分けていない者とを分けるという意味と捉える事もできるとお聞かせいただきます。そして、この「から」と「にほん」は、我々人間の心の中にもあるということをご説明されました。つまり、我々の心の中にも、親神様の思召しに沿った心と、親神様の思召しに沿わない心が混在しているということです。
では、その親神様の思召しに沿わない心とは何でしょうか。それは教祖がお教えくださる「ほこり」の心ではないかと思います。そのためには、自分自身の心の中にある「ほこり」に気づかなければなりません。教祖が先人の方々にお話くだされていたお話の中に、ほこりとは襖に挟まった豆のような物やと教えて下さいました。豆が襖に挟まっていれば、戸は閉まらないわけであります。いくら力を込めて閉めても閉まりません。しかし、その豆が挟まっていることに気づき、その豆を取り除けば、襖は力を入れずとも自然に閉まるのです。「ほこり」はこの豆と同じで、気づかなければいつまで経ってもそこにあり続けます。ですから、まずは豆の存在、つまり自分の心の中にある「ほこり」の存在に気づくことが大切だと教えていただいています。
おつとめは、まさにその心のほこりを払わせていただくための大切なものです。おつとめによって日々の心を見直し、心を澄ませ、親神様の思召しに沿った心にならせていただく。親神様の思召しに沿った心であれば、親神様が守護してくださると教えていただいているのですから、親神様に凭れて通らせていただくことが大切であると思います。凭れるということも、どういうことが本当に凭れるということか思案いたしますと、自分で何とかしようと肩に力を入れ続けるのではなく、親神様のお働きを信じて安心して通らせていただくことだと思います。例えば、壊れそうな椅子に座る時には、もしかしたら壊れるかもしれないと思えば、身体に力が入り、本当に安心して寄りかかることはできません。また、手すりでもネジが外れかけてグラグラしている物に、完全に身を預けて体重をかけることはしないと思います。それと同じで、信用していないものには凭れ切ることができません。逆に本当に信頼するものには、完全に身を任せることができます。ですから、自分自身の心の中にある「から」と言われる親神様の思召しに沿わない心、つまり「ほこり」の心を払わせていただき、親神様のお教えを信じて凭れ切ることが大切だと思います。
先ほどのおふでさきにありました
このさきハからとにほんをハけるてな これハかりたらせかいをさまる 二 34
とあるように、自分の心の中にある「から」つまりは、自分の心の中にある「ほこり」の心に気づき、改めていくことによって、親神様の思召しに沿った心となり、必要なご守護を頂戴できるのだと思います。
そして、おつとめは「理を振るのやで」とお聞かせいただきます。理とは何か。私なりに考えますと、スマートフォンから電波が飛び、目には見えなくても遠く離れた相手にメールが届くように、この世には目に見えない理の働きがあるのだと思います。人の心遣いや思いも同じです。目には見えませんが、その心は周囲に影響を与え、良い心遣いは良い縁を呼び、感謝の心は感謝できる出来事を引き寄せます。逆に悪い心遣いは悪い縁を呼び、不足の心は不足の出来事を引き寄せていきます。昔から「類は友を呼ぶ」と言われますが、これも理の働きの一つかもしれません。そして、おつとめにはその理を動かす働きがあると教えていただきます。もちろん、自分の願い通りに神様を動かすということではありません。先ほどからお話させていただいているように、親神様の思召しに沿った心にならせてもらうことで、必要なご守護やご縁を頂戴できるということです。
私自身、先日、地域おたすけ研修会で、教会で続けているこども食堂の話をさせていただきました。今では多くの方々に支えていただき、地域の活動として続いていますが、決して私一人の力でできたことではありません。お米を寄付してくださる方、食材を届けてくださる団体、ボランティアの皆さん、地域の関係機関の方々。本当に多くの方のお力をいただいています。しかし、そのご縁をつないでくださったのは誰かと考えますと、私は親神様・教祖のお働きであるとしか思えないのです。実は私が教会長になったばかりの頃は、ちょうどコロナ禍でした。外に出ることも思うようにできず、「何とか地域のためにお役に立ちたい」と願いながら、毎日十二下りのおつとめを勤めさせていただきました。すると不思議なことに、人とのご縁がつながり、必要な時に必要な方と出会わせていただき、少しずつ今の活動へと道が開かれていったのです。振り返りますと、おつとめによって理を頂き、その理が働いてくださったのだと感じています。
おつとめは理づくりでもあるわけです。困った時だけお願いする。たすけてほしい時だけお願いする。それでは、なかなか思い通りにならないことがあります。しかし、日頃からおつとめを勤め、親神様のお心に沿わせていただこうと努めていると、その積み重ねが理となり、いざという時にご守護として現れてくるのだと思います。もちろん、人をたすけるのは私たちの力ではありません。親神様のお働きであり、そのお働きを頂戴するために、おつとめがあるのだと思います。
私たちは、ともすると結果ばかりを求めてしまいます。しかし、おつとめは結果を求めるためのものではなく、親神様のお心に沿わせていただき、理を頂くためのものです。その理をいただいた先に、おたすけがあり、ご守護があり、喜びがあります。
今日のお話を通して改めて思うことは、おつとめは単に形を勤めることではなく、自分自身の心を見つめ直し、心のほこりを払わせていただく大切な機会であるということです。そして、親神様の思召しに沿った心にならせていただき、親神様に凭れて通るためのお働きでもあるのだと思います。
どうか私たち一人ひとりが、教祖が現身をお隠しになられてまで完成へとお導きくださったおつとめの尊さを改めて胸に治め、日々心を込めておつとめを勤めさせていただきたいと思います。
ご清聴ありがとうございました。

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相談者:教会長
メンタル心理カウンセラー資格受講修了 検定試験受験予定
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