2023年8月月次祭講話要約「心のほこり」

只今は8月の月次祭を無事つとめ終えさせて頂きました。
御参拝下さった皆様、誠にありがとうございました。

本日は「心のほこり」についてお話させて頂きます。

親神様は人間が陽気ぐらしをするのを見てともに楽しみたいと思召され人間を創造されました。
それでは、この「陽気ぐらし」とは、どのようなくらしの事を指すのでしょうか?
毎日お酒を飲んでドンちゃん騒いで暮らすことを陽気ぐらしと言うのでしょうか?
確かにお酒を飲んで気分が良くなれば陽気になるので、陽気ぐらしなのかもしれません。
しかし、これは刹那的な考えであり「今さえ良ければ、我さえ良ければ」という考えではないでしょうか。毎日、お酒を飲んでドンちゃんしていれば、自分は良いですが周りの方はどう思うでしょうか。自分の身体は将来どうなるでしょうか。その人の一生が永遠に「陽気ぐらし」が出来ないという事は、誰しもが容易に想像できます。

親神様からお教えて頂いている「陽気ぐらし」は、「今さえ良ければ、我さえ良ければ」という刹那的な考えではなく、互い立て合い扶け合って、その人の一生、来世そして末代へと永遠に喜びが続くことが「陽気ぐらし」であると思います。このような「陽気ぐらし」をするためには、親神様からお教えいただいている「かしもの・かりものの理」、そして「八つのほこり」について、良く理解し納得する事が大切であると思います。前述した「今さえ良ければ、我さえ良ければ」というような、親神様の思し召しに沿わない心遣いは全て「心のほこり」とお教えいただいています。

「人間の身体は、親神様からのかりもので、心だけが自分のものであります。身体をはじめ、身の周りの一切は銘々の心通りに御守護下さいます。
親神様の思召に沿わない、自分中心の心遣いを「ほこり」と仰せられます。ささいな「ほこり」の心遣いも積もり重なると、ついには十分な御守護を頂けなくなります。そこで親神様の教えをほうきとして、たえず胸の掃除に努めるとともに、人には「ほこり」を積まさぬよう心を配らねばなりません。
ほこりの心遣いを掃除する手掛かりとして、「おしい・ほしい・にくい・かわい・うらみ・はらだち・よく・こうまん」という「八つのほこり」をお教え頂いています。」
(「八つのほこり」道友社より引用)

「おしい」とは、心の働き、身の働きを惜しみ、税金など納めるべき物を出し惜しみ、世のため、道のため、人のためにすべき相応の務めを欠き、借りたる物を返すのを惜しみ、嫌な事は人にさせて、自分は楽をしたいという心。

「ほしい」とは、心も尽くさず、身も働かずして、金銭を欲しがり、不相応に良き物を着たがり、食べたがり、また、あるが上にも欲しがるような心。

「にくい」とは、自分のためを思って言ってくれる人に、かえって気を悪くして反感を持ち、あるいは自分の気に入らない、癪に触ると人を毛嫌いし、陰口を言って、そしり笑うような心。

「かわい」とは、わが身さえ良ければ、人はどうでも良いという心。

「うらみ」とは、顔をつぶされ、望みを妨げられた、誰がどう言ったとて人を恨み、根に持ち、銘々、知恵・力の足りないことや、得のないことを思わず、人を恨む心。

「はらだち」とは、人が悪いことを言った、誰がどうしたとて腹を立て、自分の主張を通し、相手の言い分に耳を貸そうとしないで腹を立てるような心。

「よく」とは、人より多く身に付けたい、何が何でも取れるだけ取りたいという心。

「こうまん」とは、思い上げってうぬぼれ、威張り、富や地位をかさに着て、人を見下し、踏みつけにするような心。

(「八つのほこり」道友社より一部抜粋引用)

「八つのほこり」について、以上のように教えて頂いていますが、拝読していますと不思議と誰かの顔が浮かんできたりもします。しかし、それも「ほこり」の心遣いです。この教えは誰かに当てはめて人を貶めるためのものではありません。あくまでも自分自身の心を見直す手掛かりとして、お教えいただいているものであります。そしていざ、自分自身を見直してみますと、「いやいや、私は親神様の教えを守って、今まで人様には迷惑をかけた事がない暮らしをしているので、八つのほこりの心遣いは全くしていません。ですから、心のほこりは全く積もってないです。」と思われる方もいるかもしれません。私は、逆に毎日ほこりの心遣いがあり、夕づとめの時に「今日もほこりの心遣いをしてしまいました。申し訳ありません。」と反省する毎日であります。親神様から「いいかげん反省して成人してくれや」と言われてしまいそうなくらいです…。

ところで、親神様からは悪い心遣いを「ゴミ」とか「ガラクタ」というような、目に見えるような表現ではなく、目には見えにくい「ほこり」という表現でお教えいただいています。これは、今お話した通り「私は全くほこりがありません」という人でも、目に見えない「ほこり」の心遣いがあるということを、我々人間にわかり易く、良く了解させるための表現であると思います。もし、部屋に「ゴミ」や「ガラクタ」があれば、目に見え不快ですから掃除の際に捨てます。つまりは、法律に触れて罰せられるような悪い事した場合は、逮捕され罰金、刑務所などに収容され反省を促されるので、自分でも悪い事をしたことを認識します。しかし、「ほこり」の心遣いは法律には触れないような事ですので、自分自身で悪いと思っていない場合が多いのだと思います。つまりは、自分では意図せず無意識に、人を傷つける、人を不快にさせる事があるということです。これを「癖性分」とお教えいただいています。私もそうですが誰しもが「癖性分」がありますので、容易に人を傷つけたり、不快にさせる事をしてしまっている可能性があります。

このような心遣いを反省せず「些細なほこり」でも積もり重なると、ついには親神様から十分なご守護を頂けなくなってしまいます。そして、十分なご守護を頂けなくなると、自分の思い通りにいかず、人は悩みます。教祖からも「やさしい心になりなされや。人を救けなされや。癖、性分を取りなされや。」と教えて頂いている通り、「癖性分」を取らないと、前述した通り、人に不足をさせ「ほこり」を積ませたり、自分自身が「ほこり」を積むことになってしまうのだと思います。世界は、多くの人との関わり合いによって成り立っており、一人の思いは多くの人々の思いが重なりあう網の一筋にすぎませんから、思うようにならない時もあるとは思います。しかし、「ほこり」をなるべく積まない、そして積もったのであれば払うことで、また、親神様から十分なご守護を頂けるようになり、その人の一生、来世そして末代へと永遠に喜びが続く「陽気ぐらし」が出来るのだと思います。願い通りの守護ではなく、心通りの守護を下さるのであります。

私は「ほこり」の心遣いは全くありませんと、「こうまん」のほこりの心遣いをせずに、今一度、毎日の「ほこり」の心遣いを反省して、掃除をすることが大切であると思います。最初は親神様の教えである箒を持って「心のほこり」の掃除をしますが、日が経てば「これくらいなら大丈夫!」と何の根拠もない自信から、些細なほこりを積んでしまいがちです。初心を忘れず誠の心でお通り頂き「心のほこり」を積まないよう、掃除をするよう、お互い心がけて通らせて頂きましょう。

本日は、「心のほこり」についてお話させて頂きました。
ご清聴ありがとうございました。

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相談者:教会長
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