2022年4月 月次祭講話要約 ~「さづけ」と「つとめ」は「目的」であって「手段」ではない~

 只今は4月の月次祭を結構につとめ終えさせて頂きました。ありがとうございました。
 少々お時間を頂戴してお話を取次ぎさせて頂きたいと思います。

 今月で、私が教会長に就任して1年となります。年を取るにつれて時間の経過は早く感じていたのですが、教会長に就任してからの1年間は、様々な出来事があり、とてもゆっくりと流れた感じがしております。

 さて、この4月は教祖が誕生された芽出度い月であります。天保9年10月26日に教祖が「月日のやしろ」となられて、親神様は教祖のお口を通して、我々、人間は誰が、どのように、何の目的で創造されたのかをお説き明かされました。そして、教祖が「月日のやしろ」となられてから「50年のひながた」をもって、この天理教のお道をお付け下さいました。ただ、この「50年のひながた」は並大抵なものではなかったとお聞かせ頂いています。まずは「貧に落ち切れ」との親神様の思召のままに、貧しい人々へ施しをして、貧のどん底へと進んでいきました。また、夫・善兵衞様のお出直しという大節の機には、「これから、世界のふしんに掛かかる」と仰せられて、母屋を売り払い、さらには、娘のこかん様を浪速の地へ布教に出されました。このような普通の人には理解し難い振る舞いは、親族の反対はもとより、知人、村人の離反、そして皆から笑われてお通りになられることとなります。しかし、その中も教祖は、常に明るく勇んでお通りになり、時には食べ物がない時でも「水を飲めば水の味がする」と子供たちを励ましながらお通りになりました。こうした道中を経て、やがて「をびや許し」を道あけとして、不思議なたすけが次々と顕れるにつれて、教祖を「生き神様」と慕い寄り来る人々が現れ始めました。しかし、これはまた、ねたみなどから様々な攻撃を受ける事となりました。それらは迫害・干渉の激しさに加え、教祖にも十数度にわたる警察や監獄への御苦労が降りかかることになりました。

 では、教祖が、この様なご苦労の道を通られてきたは、なぜか?と考えた際に、教祖は苦労が好きだったからでしょうか?貧しいのが好きだったからでしょうか?そうではなく、親神様の思召しに沿った「陽気ぐらし」への世界を急き込まれる上からの事であったと思います。そして「陽気ぐらし」の世界になるために、自らがひながたとなり、人を扶ける事、つとめを急き込まれる事を教えられてきたのであります。

おふでさき 第1号 47以下3首の御歌に

 やまさかや いばらぐろうも がけみちも
 つるぎのなかも とふりぬけたら

 まだみへる ひのなかもあり ふちなかも
 それをこしたら ほそいみちあり

 ほそみちを だんゝこせば をふみちや
 これがたしかな ほんみちである

 とありますように、何もかも難しい中を通り抜けて出た大道こそ、確かに間違いのない往還道であると教えられています。

 そして、教祖50年のひながたで、教祖が教え伝えて下さった一番大切な事は、「さづけ(たすけ)」と「つとめ」であり、これがこの天理教を信仰する一番の目的であると私は思っています。しかし、この目的である「さづけ」と「つとめ」が「目的」から「手段」に変わっている場合もあるのではないかと思います。私もずっと組織で働いていましたので、この「目的」が「手段」にすり替わる事は大いにあります。それは、私自身も経験がありますが、当人達は全く気付かず、そして全く悪気が無いという事がやっかいでもあります。

 しかし、レベルアップするために「目的」が「手段」となる場合もあります。それが明確に次のステップに行くのであれば常にレベルアップして良い事でもあると思います。例えば、レベル1では「テストで良い点数を取る」という「目的」に対して、「算数を勉強する、漢字を覚える」という「手段」があったとします。次にレベル2に進むと「希望の学校に進学する」という「目的」に対して、「手段」がレベル1の「目的」であった「テストで良い点数を取る」という事になります。そしてレベル3になれば、「希望の学校に進学する」ということは「手段」となり、「目的」は「専門性を活かした仕事に就き社会貢献をする」ということに変わっていきます。これは良い例でステップアップすることが出来るのだと思います。

 しかし、教祖から教えて頂いた「さづけ」と「つとめ」は手段にはなってはいけないと思います。これは天地がひっくり返っても「目的」であると思います。例えばですが、教会の信者さんを増やしたい、天理教の教勢を伸ばしたいという「目的」に対して、「さづけ」と「つとめ」が手段となっては本末転倒です。教会の為に人扶けをするのではなく、他人の為に人扶けをするのです。そういう心にならなければと思っております。

 では、教会はどうなっても良いのか?というと、そうではないと思います。教会は「ぢば」の理を頂戴して親神様を奉っています。他人を扶けるのは、我々人間ではありません。「自分の力で他人を扶けている」「自分に徳があるから他人を扶けられる」と思うのは「ほこり」でいう「こうまん」心であると思います。あくまでも我々人間を通して、親神様、教祖がお働き下さり助けて頂くのです。その理を頂戴しなくては他人を扶ける事ができませんので教会は必要です。そして扶けて頂いた方が、その感謝を胸に御礼に参る、今度は別の他人を扶けたいと思い、扶ける理を頂戴するために教会に参る。そして、教会が賑やかになり教会を存続していくという「結果」につながるのだと思います。

 前述した通り、今月は教祖がお生まれになった芽出度い月でございます。そして50年にわたる「ひながたの道」を残されたばかりでなく、今もなお、ご存命のままお働きくだされ、私たち人間を陽気ぐらしへとお導きくだされています。教祖からお伝えて頂いた「さずけ」と「つとめ」を実行して、自身や教会の為ではなく、他人の為に人を扶け、親神様、教祖にお慶び頂き「陽気ぐらし」への世界へと変わっていけるように努めてまいりたいと思います。

 本日はありがとうございました。

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