2021年5月 月次祭講話 要約

講師:柴田正慶(5代会長)

只今は立教184年5月の月次祭を無事勤め終えさせて頂きました。どうも、ありがとうございました。

会長に就任して最初の月次祭で届かぬものですが、少々お時間を頂戴してお話しお取次ぎさせて頂きたいと思います。宜しくお願い致します。

 会長に就任した際に大教会長さまより一言「悟ということはしなくても、全て親神様が教祖を通して全て教えてくれている。それを深く学んで欲しい」とのお言葉を頂戴しました。

 この世は理の世界と教えて下さっています。

 理の世界とはなにか?元の理、天の理という言葉がありますが、理とは親神様のお働きそのものであって、十全の守護で教えられるお働きがそれにあたるのだと思わせて頂きます。特に、理の世界で大切なのが、時間と空間かと思わせて頂きます。時間は人間創造の時に「をもたりのみこと様」が、空間は「くにとこたちのみこと様」が造られました。人間創造時の「をもたりのみこと様」のお姿は12頭3尾の大蛇です。12の頭は12月ヶ月12時の時間、3つの剣の尾で1年を割り四季が生まれたわけであります。そして、「くにとこたちのみこと様」が「くにとこ」ですから国々床、すなわち空間場を造られたのです。

世界の世は時間 界は空間(所)

 この時間と空間は人間から離れることが出来ません。時計を見てあたかも時計の中に時間があるかのように錯覚します。場所は自分が動いているかのように錯覚します。しかし、これも自分が動いているのではなく、親神様の摂理に基づいて動かされている。また、動いているから速さである時間を考えなくてはなりません。

 ですが、理というものは目には見えません。ですから普段は気づかず過ごしています。しかし、昔から仏教でも因果応報という言葉があるように、良い事をすれば良い事が、悪いことをすれば悪いことが起きるといわれており、天理教でも良い種をまけば良い芽が、悪い種をまけば悪い芽が生えると教えられています。また、天理教では種を蒔く田地、場所で良いとされているのは「ぢば」であると教えて頂いており、そこで蒔いた種は一粒万倍になって生えてくると教えられています。もちろん各地方でも良い種をまけば良い芽が、悪い種をまけば悪い芽が生えますが、その生える栄養が違うと申しましょうか、みかぐらうた七下りでも、「よきぢがあらばいちれつに たれもほしいであろうがな」とあるように、良い田地があれば皆がそれを求めるわけですから、ぢばでの種まきが大切ということです。そして、各地ではそのぢばから名称を頂いた教会が良い田地ということになります。

 そして、良い種とは、「つとめ」と「たすけ」そして「ひのきしん」だと教えて頂いています。この「つとめ」と「たすけ」について、少し考えてみたいと思います。

 教祖50年の雛形は、まさに「つとめ」を急き込まれた訳であり、また25年の定命を縮めてまで、「つとめ」を急き込まれ、「世界たすけ」の道に出られたわけです。この「つとめ」をすることで、陽気ぐらしの世界へと近づき「かんろだい」の完成と共に「じきもつ」をお与え頂けると教えて頂いています。この「じきもつ」を口にすることで115歳定命まで病まず死なず弱らず暮らすことが出来ると教えて頂いています。それほど「つとめ」が大切であるわけであります。一方「つとめ」と言いますと、世情では会社につとめるなどという方が一般的に使われますし、認識されていると思います。この「世情でのつとめ」も大切で教祖は他人(はた)を楽にするから働くと教えて下さっています。先月の「みちのとも」で表統領さまがお話し下さっていますが、天理教の一部の方では、たとえば社会の福祉活動などは天理教のひのきしんと考えが違うから、そんな事をしたらだめという人がいるといのうです。もちろん福祉とひのきしんは考えかた捉え方が違いますが、わざわざ人を助ける機会、においがけをする機会を自ら潰していてるというのです。これからは、そのような機会を好機だと思って積極的に関わって行っていかなくてはならないというお話しでした。まさに私もその通りかと思わせて頂きます。現在、私も妻も教会をしながら働かせて頂いていますので道一條とはなっていませんが、神一條の道は変わらないと思っています。働いている事で、これから「においがけ」になることも増えてくるかもしれません。そうなるためには、まずは自分たちが「なるほどの人」にならないといけないと思っていますので、「なるほどの人」を目指して努力していかなくてはならないと思っています。先日、お運びの後に大教会長さまにも、仕事のお話をすると、それは「おおいに結構」というふうに言われました。「先人の方々も、鍛冶屋であったり、大工であったり皆それぞれが仕事を持って働いており、その中で布教活動を行っていたのだから、本来はそれが良いのかもしれないし、そうあるべきなのかもしれないな」との事でした。我々も神一條の心は忘れず教会の御用はもちろん、今与えられている仕事も全力でさせて頂きながら、邁進していかなくてはならないと考えています。

 次に「たすけ」ですが、教祖は「人をたすけなさい」「人を助けたら我が身助かる」とお教え下さっています。その人を助ける手段として「おさずけ」があり、理を考える上で「かしものかりものの理」、そして陽気ぐらしをする手がかりとして「八つのほこり」を教えて下さっています。しかし、このお道を今まで見てきていますと、これらの教義を身上や事情に苦しむ方に突き付けて、相手に「こんなことしてるから こうなるんだ!」とか「こういう因縁があるから こうなってきたんだ!」などという言い方をする人をお見受けます。この道は誰かに言われてとかではなく、自ら進んで信心して自身の心次第なわけです。もちろん、その道しるべとして私たち教会長やようぼくの方が未信の方に対して教義を伝える事は必要ですし大切です。人を助けたら我が身助かると教えて頂いている通り、人を助けさせて頂く事が大切であり、親神様は身上や事情をお見せ下さって、お手引きをしてくれた訳であり、決して苦しめようと思ったわけではないわけです。それを未信の方に対して教義を武器のように突き付けて、あたかも相手の因縁が悪いよう伝えてしまったのでは、本当の「においがけ」「おたすけ」にはならないと思わせて頂きますし、その人に対してそのような事をしてしまうと助けるところか、かえって距離をとられてしまう事があり、せっかく親神様が手引きをしてくれた事が逆目になってしまいます。見るも因縁、聴くも因縁と教えられるように、その人の因縁を自分に置き換えて、自分の因縁だと自覚して、自分が変わらないと相手は変わらないと思わせて頂き「たんのう」しなくてはならないのだと思わせて頂きます。教祖から頂いた尊い「おさずけの理」で、おさずけを取り次がせて頂くときも、「あしきはらい」と相手の胸ではなく、自分の胸を払う手をします。これは自分の心の埃を払って、そして相手の身上や事情をお扶け頂きたいと願うところに本当の助けを頂けると教えて頂いています。ですから、人扶けたら我が身が助かるのです。

 今、新型コロナウイルスの感染症が拡大しており、なかなか「おたすけ」は難しい時代で、この節をどう思案させて頂かねばならないのか、まだまだ、私自身もわかりませんが、とにかく今自分にできることをさせて頂く事が大切かと思っております。その繰り返しで、自分に出来ることが増えてきて、節から良い芽が吹くのではないかと思う次第です。

 本日は、「つとめ」と「たすけ」について理の上の話から色々と考えさせていただきました。私自身もそうですが、「つとめ」によって常日頃から胸の掃除を行い、そして、ほこりをなるべく積まないように、そして人にも埃を積まさないようにすることが大切かと思わせて頂きます。

 長くなりましたが、教会長に就任して初めての月次祭での講話とさせて頂き、私自身も今日この事を胸に邁進していきたいと思っています。

 また、皆様どうぞお身体にお気を付けてお過ごしください。

 本日はありがとうございました。 

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相談者:教会長
メンタル心理カウンセラー資格受講修了 検定試験受験予定
上級心理カウンセラー資格 受講中

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