2025年8月月次祭講話要約「小さな埃は」

 本日は爽やかなお天気の中、皆さまとともに8月の月次祭を陽気に勇んでつとめさせていただけたことを、心から嬉しく思います。ご参拝いただきました皆さまに、心より感謝申し上げます。

本日は「小さな埃は」という題でお話をさせていただきます。

毎日の生活の中で、気をつけていても、いつの間にか積もってしまうもの。それが「埃」です。
目に見える大きな埃は気づいて掃き取ることができますが、小さな埃は気づかないうちにたまり、やがて鏡にシミがつくように、心にも跡を残してしまいます。今日は、そんな「小さな埃」にまつわる教祖のお話をご紹介しながら、私自身が感じたことをお伝えしたいと思います。

稿本天理教教祖伝逸話篇 第130話

「明治十六年頃のこと。教祖から御命を頂いて、当時二十代の高井直吉は、お屋敷から南三里程の所へ、おたすけに出させて頂いた。身上患いについてお諭しをしていると、先方は、「わしはな、未だかつて悪い事をした覚えはないのや。」と、剣もホロロに喰ってかかって来た。高井は、「私は、未だ、その事について、教祖に何も聞かせて頂いておりませんので、今直ぐ帰って、教祖にお伺いして参ります。」と言って、三里の道を走って帰って、教祖にお伺いした。すると、教祖は、「それはな、どんな新建ちの家でもな、しかも、中に入らんように隙間に目張りしてあってもな、十日も二十日も掃除せなんだら、畳の上に字が書ける程の埃が積もるのやで。鏡にシミあるやろ。大きな埃やったら目につくよってに、掃除するやろ。小さな埃は、目につかんよってに、放っておくやろ。その小さな埃が沁み込んで、鏡にシミが出来るのやで。その話をしておやり。」と、仰せ下された。高井は、「有難うございました。」とお礼申し上げ、直ぐと三里の道のりを取って返して、先方の人に、「ただ今、こういうように聞かせて頂きました。」と、お取次ぎした。すると、先方は、「よく分かりました。悪い事言って済まなんだ。」と、詫びを入れて、それから信心するようになり、身上の患いは、すっきりと御守護頂いた。」

この逸話は、明治16年頃のお話で、登場人物である高井直吉(猶吉)先生は当時23歳。お屋敷に住み込んで3年ほど経った頃の出来事です。教祖はこのお話の中で、例えを用いながら「どんなに気をつけていても、また埃が小さい場合は気づきにくく、知らず知らずのうちに積もり、やがては簡単に取れない頑固な汚れになる」ということをお示しくださいました。さらに教祖は、この「ほこり」の心遣いを、「おしい・ほしい・にくい・かわい・うらみ・はらだち・よく・こうまん」の「八つのほこり」として教えてくださっています。

先日、息子が「なんで埃は全部同じ色なの?」と質問してきました。私は、「目に見える埃は、小さな目に見えない埃が絡み合ってできたもので、その埃を顕微鏡で見ると赤、青、黄色、白や黒など色んな色の埃が集まって、大きくなって灰色の埃に見えるんだよ。絵具もいろんな色を混ぜると黒っぽくなっていくのと同じだよ」と教えました。その時、私は「心の埃も同じだな」と思いました。

悲しみや不安で心が重くなり、物事を楽しめなくなることを「心が曇る」といいます。また、心理学では、喜びやワクワクが薄れ、モヤっとした状態を「灰色の心」と呼び、抑うつの初期症状を示す表現として使うこともあります。いずれも、心が灰色で輝けない状態を指します。

では、なぜ心が灰色になるのか。やはり小さな埃が積もり重なり、心が曇ってしまうからではないでしょうか。だからこそ、心の埃を掃う手立てとして教えていただいている「ひのきしん」や「おつとめ」が大切になります。また、ようぼくとして「教えを広め、人をたすける働き」も欠かせません。

また、先ほどの逸話からもう一つ学べることがあります。それは、高井直吉先生が、自分の言葉や解釈ではなく、教祖から教わったお話を一語一句そのまま伝えた、という点です。高井先生は後に、「教祖から聞かせて頂いた話を、わしは何回でも同じ話をする。自分の考えや、勝手な言い廻しは一言も入っていない」と語っています。

私たちも、教祖のお話を正しく学び、そのままお伝えすることの大切さを悟らせていただきます。もちろん、直吉先生のように一語一句間違えずに話すのは難しいかもしれません。しかし、自分の都合のよいように解釈し、相手を貶めたり苦しめたりすることはあってはなりません。

例えば、雇用関係にある人に、時間外で「これ“ひのきしん”だからやっておいて」と無給で働かせる。一見、「ひのきしん」と言っているので善いことのように聞こえますが、これは本来の「ひのきしん」ではありません。頼む側が給料を払いたくないという「おしい」の心遣いをしてしまっているだけなのです。「ひのきしん」とは、親神様からお借りしている身体を自由に使わせていただいている喜びを、感謝の心で表す行いです。だからこそ、他人から指示されて強制的にやらされるものではありません。大切なのは、その人が心から喜び勇んで勤められるように、私たちが心を丹精し、お導きさせていただくことです。労働を押しつけるのではなく、「やらされる」ではなく「やりたい」と思ってもらえる心の場をつくることこそ、教えにかなった通り方だと思います。

稿本天理教教祖伝 第2章「生い立ち」P19-20より引用

「或る秋の収穫時に、作男を雇われたが、この男は、丈夫な身體にも拘らず、至って惰け者で、  他の人がどのように忙しくして居ても、一向に働こうとはせず、除け者になって居た。しかし、教祖は、見捨てることなく、いつも、『御苦労さん。』と、優しい言葉をかけて根気よく導かれた。作男は、初めのうちは、それをよい事にして、尚も、怠け績けたが、やがて、これでは申譯ないと気付いて働き出し、後には人一倍の働き手となった。」

このお話にある通り、教祖の様に人の心に寄り添い、その人が自ら心を入れ替えていけるように導くことが大切だと思います。

小さな埃は、一日で積もることはありません。けれど、それを放っておくと、やがて鏡の輝きを奪ってしまいます。心も同じです。ほんの小さな「ほこり」でも、積もれば光を失います。私たちも「小さな埃」を積まないよう、また、知らず知らずのうちに積んでしまうことを自覚し、それを毎日「おつとめ」や「ひのきしん」で払い続けられるように通らせていただきましょう。

本日は「小さな埃は」について、私の思うところをお話させていただきました。
ご清聴、ありがとうございました。

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相談者:教会長
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