当教会では、毎月日を定め、2日間にわたって「6座のお願いづとめ」をつとめさせていただいております。
1座は「坐りづとめ」と「てをどり前半・後半」で構成されています。

このおつとめは、皆様が抱える身上(病)の平癒事情(悩みごと)の解決を願ってつとめられるものです。
加えて、世界平和を願い、世界中の人々が互いに立て合い、助け合って生きていける「神人和楽の陽気ぐらし」を願ってつとめさせていただいております。

お願いづとめにご参加いただき、「身上の平癒」「事情の解決」を願われる方には、「心定め」をお願いしております。


「心定め」とは?

「心定め」とは、神様との約束です。
ご守護を頂くために、自分自身ができることをあらかじめ定めて実践し、その「心定め」をやり遂げることで、はじめて真のご守護をいただくことができます。

この「心定め」において大切なのは、「これくらいならできそうだからこれでいいか」「病気を治してくれたらやってやる」といった、妥協したり上からの物言いをしないことです。
そのような心では、神様には通じません。

「病気を治していただけるのであれば」「事情を解決していただけるのであれば」と、たとえ難しいことであっても真剣に「心定め」をさせていただき、必ずやり遂げるという気持ちが大切です。

つまり、親神様は「願通り」のご守護ではなく、「心通り」のご守護をくださるということです。

実際に、当教会の「6座のお願いづとめ」において「身上の平癒」をいただいた方がいらっしゃいます。
その方も、素直に「心定め」を完遂してくださったからこそ、ご守護を頂かれたのです。


つとめの時間・お問い合わせ

1座は約50分です。各座の開始時間は以下の通りです。

  • 【1日目】
     1座目:8時00分
     2座目:12時00分
     3座目:16時00分
  • 【2日目】
     4座目:8時00分
     5座目:12時00分
     6座目:16時00分

【お問い合わせ】
天理教北旭道分教会 会長 柴田正慶
電話番号:0166-36-1823
e-mail:kitakyokudo@gmail.com

各月の日程は投稿ページよりご確認下さい。

おつとめ後の取り次ぎについて

おつとめ終了後には、身上をお持ちの方には「おさづけ」を取り次がせていただいております
また、事情をお持ちの方にはご相談のお時間も設けておりますので、どうぞお気軽にお申し出ください。


なぜ「6座」なのか?

最後になぜ当教会で「6座のお願いづとめ」をさせていただくのかと申しますと、
これは**教祖伝逸話篇 第199話「一つやで」**のお話に基づいております。

私たちはこのおつとめを通して、皆様が「身上の平癒」「事情の解決」というご守護をいただけることを心より願っております。


教祖伝逸話偏 199.「一つやで」

 兵神真明講周旋方の本田せいは、明治十五年、二度目のおぢば帰りをした。その時、持病の脹満で、又、お腹が大きくなりかけていた。それをごらんになった教祖は、
 「おせいさん、おせいさん、あんた、そのお腹かかえているのは、辛かろうな。けど、この世のほこりやないで。前々生から負うてるで。神様が、きっと救けて下さるで。心変えなさんなや。なんでもと思うて、この紐放しなさんなや。あんた、前々生のことは、何んにも知らんのやから、ゆるして下さいとお願いして、神様にお礼申していたらよいのやで。」
と、お言葉を下された。それから、せいは、三代積み重ねたほこりを思うと、一日としてジッとしていられなかった。そのお腹をかかえて、毎日おたすけに廻わった。
 せいは、どんな寒中でも、水行をしてからおたすけにやらせて頂いた。だんだん人が集まるようになると、神酒徳利に水を入れて、神前に供え、これによって又、ふしぎなたすけを続々とお見せ頂いた。こうして、数年間、熱心におたすけに東奔西走していたが、明治十九年秋、四十九才の時、又々脹満が悪化して、一命も危ないという容態になって来た。そして、苦しいので、「起こせ」とか、「寝させ」とか言いつづけた。それで、その頃の講元、端田久吉が、おぢばへ帰り、仲田儀三郎の取次ぎで、教祖に、お目にかかり、事の由を申し上げると、教祖は、
 「寝させ起こせは、聞き違いやで。講社から起こせ、ということやで。死ぬのやない。早よう去んで、しっかりとおつとめしなされ。」
と、仰せ下された。そこで、端田等は急いで神戸へもどり、夜昼六座、三日三夜のお願い勤めをした。が、三日目が来ても、効しは見えない。そこで、更に、三日三夜のお願い勤めをしたが、ますます悪くなり、六日目からは、歯を食いしばってしまって、二十八日間死人同様寝通してしまった。その間毎日、お神水を頂かせ、金米糖の御供三粒を、行平で炊いて、竹の管で日に三度ずつ頂かせていた。
 医者に頼んでも、「今度は死ぬ。」と言って、診に来てもくれない。然るに、その二十八日間、毎日々々、小便が出て出て仕方がない。日に二十数度も出た。こうして、二十八日目の朝、妹の灘谷すゑが、着物を着替えさせようとすると、あの大きかった太鼓腹が、すっかり引っ込んでいた。余りの事に、すゑは、「エッ」と、驚きの声をあげた。その声で、せいは初めて目を開いて、あたりを見廻わした。そこで、すゑが、「おばん聞こえるか。」と言うと、せいは、「勿体ない、勿体ない。」と、初めてものを言った。
 その日、お粥の薄いのを炊いて食べさせると、二口食べて、「ああ、おいしいよ。勿体ないよ。」と言い、次で、梅干で二杯食べ、次にはトロロも食べて、日一日と力づいて来た。が、赤ん坊と同じで、すっかり出流れで、物忘れして仕方がない。
 そこで、約一ヵ月後、周旋方の片岡吉五郎が、代参でおぢばへ帰って、教祖に、このことを申し上げると、教祖は、
 「無理ない、無理ない。一つやで。これが、生きて出直しやで。未だ年は若い。一つやで。何も分からん。二つ三つにならな、ほんまの事分からんで。」
と、仰せ下された。
 せいは、すっかり何も彼も忘れて、着物を縫うたら寸法が違う、三味線も弾けん、という程であったが、二年、三年と経つうちに、だんだんものが分かり出し、四年目ぐらいから、元通りにして頂いた。
 こうして、四十九才から七十九才まで三十年間、第二の人生をお与え頂き、なお一段と、たすけ一条に丹精させて頂いたのである。
註 夜昼六座とは、坐り勤めとてをどり前半・後半の一座を、夜三度昼三度繰り返して勤めるのである。これを三日三夜というと、このお願い勤めに出させて頂く者は、三昼夜ほとんど不眠不休であった。